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1811−1864 松代藩(長野県)藩士。 幕末期の思想家。 通称:啓之助、修理。雅号:象山、子明 黎明日本の礎を築いた、幕末の先覚者である。 偉大なる世界的国家観と、開国進取を基調とする象山思想は後世まで燦と輝き、 今日の日本を啓示するシンボルとも伝えられている。 東洋の精神文化と西洋の物質文明の両方に通じ、 砲術家・科学者・医学者・政治家・詩人・儒学者という多彩な顔を持ち、 各々の分野で輝かしい業績を残している。 |
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略年表 |
教育者象山 |
● | 天保7年,藩命により御城附月並講釈助となった。12月に教授になり、自宅においても門弟多く 文武の道を教授した。 学童規則、学制意見書を藩老矢沢監物に上書した。 |
● | 29歳の天保10年,神田お玉ケ池に象山書院を開き、多くの門弟を指導。 |
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41歳の嘉永4年(1851年)江戸木挽町で五月塾を開く。 勝海舟・坂本龍馬が入門し、 その後吉田松陰・橋本左内・小林虎三郎等が門弟になる。 主として経学と砲学を教授し、これに併せて フランス式歩兵操典によって調練を試みた。 他藩からも招かれて洋式大砲の指導や築塁の方法等を講義した。その精神は、 東洋の道徳、西洋の芸術、精粗遺さず表裏兼該し因りて以て民物を沢し国恩に報ぜん」という詩にあらわされている。 この頃、象山を慕って教えを請う者は遂に一万五千人に達したという。 |
政治家象山 |
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36歳三村利用掛(湯田中・沓野・佐野)を命じられ,新田開発・治水植林・築堤の改良・温泉場の
改善鉱物採掘等軽く見積もっても1万石の増収は図られたといわれる。 藩財政窮乏の折り、さらに充実すべきところ、家老の反対にあって実現することが出来なかった。 |
● | 幕府より攘夷につき求められた意見について、藩命により象山が起草し、攘夷の不可、 公武合体による国家統一と開国進取の理念を上書した。 |
科学者象山 |
● | 弘化元年34歳にして黒川良庵についてオランダ語を学び、藩費40両をもってショメール百科全書を求めこれによって ガラス製造を試み各種の実験をした。 |
● | 38歳、自作の大砲を清野に於いて試射、 翌年西条村開善寺に於いて新野戦砲を試射 |
● | 銅線に絹を巻いて自作の電線を造り、オランダの理学書によって試作した電信機で、 松代藩鐘楼より70m離れた御使者屋との交信に成功し,日本で最初の電信開発者となった。 |
● | 地震予知器を安政5年に作る |
一八十一年 | 松代藩士、佐久間一学の長男として、文化八年(一八十一)に生まれる。 |
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二十三歳 | 江戸佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山、藤田東湖等と親交、三年で帰藩し、藩の師弟に経書や漢字を教える。 この頃、名を修理、号を象山と改める。 |
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二十九歳 | 神田お玉ヶ池に<象山書院>を開き、多くの門弟を集める |
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三十二歳 |
藩主幸貫老中の海防顧問として、海防八策を幕府に上申する。 これを機に幕府は黒船打払令を撤廃し、国策の大転換を行うことになった。 一歩を誤れば日本が印度・ビルマ・支那等と同じ運命に陥って植民地化してしまう大危機を救ったのは、 象山の進言を受け入れ幕府を動かした名藩主老中真田幸貫の働きがあった。 |
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三十六歳 | 帰藩し、湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力、また大砲・電信機等の製作・実演する。 |
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四十一歳 | 江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本左内など維新の英才を輩出、 ぺりー来航国論沸騰の際、軍議役として横浜警備にあたる。開国論を唱え横浜開港を主張する。 |
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四十四歳 から 九年間 |
ペリーが軍艦七隻を率いて再来航したおり、上陸したペリーは象山の前まで来ると何と思ったか丁寧に会釈をしていった。 横浜での警衛をみごと果たした直後、松陰密航事件に連座して投獄されたのち、松代に蟄居される。 この間に高杉晋作・久坂玄瑞、山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳らが面会に訪れ、 時世について、激論し、象山の学識に感動して去る。 |
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五十四歳 |
元治元年(1864)幕府の命で京都へ上る。将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公式合体開国を説いて活躍中
七月十一日、三条木屋町で狂信的攘夷派の凶刃に倒れ、尊皇開国の石ずえとなって非業の最期を遂げる。 上洛の当時、京都は攘夷論者の巣で不穏な空気が満ちていたため、西郷隆盛等から暗殺の危険があるため 「暫く他出する勿れ、必ずや命はないぞ」と忠告を受けたが、「国が大事と思うならば、われの行動を止めるなかれ、 われの死によって世の人が悟るところあるなら一命なにか惜しからん」と言って活躍をやめなかった。 この象山の死をもって示した行動が明治維新の扉を開けるきっかけとなり、その礎を築いたともいえる。 |
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その後、四年にして明治維新の世を迎え、象山の尊皇開国という憂国の至情がそのまま具現されたのであった。 明治新政府は五ヶ条の御誓文を国是として定め、近代国家への歩みを進めることになったが、 その御誓文の各項は象山の年来の主張とみごとに符合していることから 明治新政府の石ずえになったと言われるゆえんでもあります。 |